「社会的に意義ある行動をすれば 人は必ず助けてくれる」

昭和51年に提訴の大原訴訟が終了したのが昭和62年である。
その日から28年が経過した平成27年5月30日に訴訟にかかわった弁護士2名と支援する会の7名が集まった。

訴訟のこと、大原さんの介護のこと、そしてその後の生き様などを話し合った。
久しぶりでなつかしい会合だった。

訴訟の時には、支援のメンバーたちと一緒に食事をし、酒を飲むようなことはなかった。
掲載した写真は、会合後の懇親会の写真である。

40年目にして初めての、 そして、おそらく最後の飲み会であった。

会合で出た話のうち、差支えのある部分はやむなく省略したが、それ以外は言葉使いも変更せずそのまま掲載した。

弁護士や支援のメンバーがどのような気持ちで訴訟にかかわっていたのか
その雰囲気を味わっていただきたい。

座談会参加者
写真前列左から、時計と反対廻りに、本多さん、大島君、衣笠君、武田さん、杉本さん
下村弁護士、三上君、小西君、弁護士大澤


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会合の呼びかけの趣旨
自己紹介:あれから今まで1
自己紹介:あれから今まで2
大原訴訟の依頼
先輩弁護士の助けも借りて・・
転落の危険を冒してでも視覚障害
 者が街に出だした時代

社会的に意義ある事件なら人は助
 けてくれるという確信

一審の鈴木裁判長は優しかった
控訴審判決はものすごく立派な判
 決であった

点字ブロック普及の理由
点字ブロックの急激な普及
訴訟前の調査の苦労
公務員の受験用教科書に載ってい
 る大原訴訟

大原訴訟の資料
和解で残ったお金は返還した
強制執行で大阪駅へ差押えに行く
当時、国家賠償訴訟は1事件が10
 年かかった

弁護士費用はただ?
介護のために毎週会議をした
大原さんの最期
大原闘争を支援する会の結成の経
 過

上埜さんの想い出
当時、皆で飲んだことはなかった
大原さんはお酒が好きだった
支援する会がないと裁判はでき
 なかった

高木弁護士はどうしてる・・
あまり会うことはない・・
一審判決、拍手の法廷。しかし、
 判決の中身が・・

控訴審判決で点字ブロックの施 
 設が加速した

最高裁の口頭弁論の開催・・支援
 者との議論

最高裁の口頭弁論の開催・・支援
 者との議論2

時間です。次は懇親会でゆっくりと
 お話を・・



【会合呼びかけの趣旨】
大澤:
実はですね、今年の初めぐらいやけどね。
事務所のホームページ作ってんねんけどね、内容を変えようと思った。
事務所のホームページの僕の経歴の中で大原訴訟をやりましたよって書いてある訳ね。
そこを変えようとしていたんだけど、ついでにネットでね、大原訴訟を検索した。
殆ど出てけえへんね、殆ど。
ほんで、念のために上野訴訟というのを見たらね、ちょこっとは出てきた。
そこに、上野訴訟をして、国鉄、今はもうJRやな、と和解して、
点字ブロック普及に尽力しますと国鉄との間で和解ができたから点字ブロックが普及したと、こう書いてあった。
それでカチンと来てやな 
 小西: 間違いやな。
 大澤: 何をぬかしとるんや、という風に腹が立ちまして。
片っぽうでやね、せっかく大原訴訟をやってきたのに、その痕跡が何も残ってないと残念やなという気持ち、
これはある意味、訴訟にかかわってきた我々の怠慢ではなかろうかという気持ちがした。
ただ、全く大原訴訟の痕跡が残っていないかいうと言うたら必ずしもそうではない。
うちの事務所の事務員さんが、公務員の試験の勉強してたとき、その受験の教科書に大原訴訟が載っていたらしいわ、
障害者の交通安全に役立ったという風なことがね。
「大澤先生がしていた訴訟ですか」って聞かれたのね。
なんと公務員の受験の教科書には載ってる、にも関わらず、ネットには何も載ってない。
今はネットの時代や、それで、なんとかネットに残しておこうではないかと。
残すために一体何したらええかという次の議論になるんやけどね、
一つ考えたんは、誰か福祉関係の学生さんや研究者がいらっしゃったらやね、大原訴訟ということについて研究していただく、研究論文でもね、卒論でもやっていただいてたら形が残るやんかと思ったんや。
そんなルートを探ったが、まぁないんですよ。
それと、これほんま偶然やけど、そのようなときに武田さんから手紙をいただいてね。
一回、大原訴訟にかかわった人に集まってもらって、おもろい昔話して、
それをちょっとうちの事務所のホームページやブログに取り込んでしまえという風な思いもあって、
《とりあえず皆さん集まりませんか》ということでやね声をかけんたが、今日の集まりの趣旨です。
 大澤: みんなの顔は大体わかんねんけど、名前と顔が・・・。
小西くんや三上さんすぐに分かった、武田さんも分かったけどね。
やっぱり何十年経ってますので、自己紹介しようか。
で、小西くんからいこや。 これまでの簡単な今の生き様とかね、しゃべってくれ。
【自己紹介:あれから今まで】
小西: そやね。
今も現場で働いてる。《社会福祉法人地域共生スペースぷりぱ》いうてね。
尼崎にあるんやけども、昔は施設解体やとか言うとったんやけど、今だに施設で働いているということになっとんだけども。
もうちょっと言うと、昔砂子療育園いうんかな、そこで代替職員から正職の採用試験で落とされてもうて、首切られてもうた。
これおかしいでということでね、現場の組合も応援してくれて、和解になって、いうことでその時に大澤先生に世話になったいう経緯があるんです。 訴訟かなんかでやったな。
大澤: そういうことあったな。
小西: あれ、ほんでお礼なんもしてなかったな。
大澤: 今してくれてもいいで、これからね。
小西: それ置いといて。
さっき、あそうそう、だから今はもうなんだ、昨夜も泊まりやってね、1日在宅でこうやっぱし、暮らしていけたらええなぁとか、
地域でね、共に暮らしていくんやということでずっとあれからね、もう40年強なるんかな、もう、障害者と付き合いして。
さっきの大澤先生の話やけども、確か、龍谷大学出身で弁護士したい弁護しているタケシタさんらが障害者原告弁護団、つい最近もね
2冊目の本ができたと思うんやけども、あの中の1冊かなんかか、それか関西レベルのあれやったかな、障害者中心の裁判の記録集みたいんなんね、結構分厚いやつね。
大阪弁護士会の中でまとめたんかな、あれの中には入ってたね、大原訴訟ね。
大澤: 大原訴訟は、誰がそれ記事書いたんやろ。
小西: それは今までのをまとめたんかなんかかな。
大澤: そのまとめる前提の情報は一体どこにあるねん。
小西: そこまでちょっと記憶ないんやけどね。
大澤: いや、そんなん作るんやったら絶対うち来んねんて、俺とこにね。
しやけど、全然来てへん。
小西: あとは確かにね、東京の上野さんの訴訟はよう聞くんやけど、色んなね、こう見とっても、なんで大原訴訟ないのかなってみたいな感じではうちも思ってたんやけどもね。
杉本: 杉本です。
大原闘争というのは、仲間関係が結構あって、次の年も、もちろん大原さんの介護とかもしてて、大原さんの介助、介護ね。
大原さんの介護をしながら、他の方の介護しながら、大原さんの介護というのはちょっと難しかったですね。
裁判とかなんか色々あったんですけど、仲間がいたからこうやって続けられたなと思います。
今、小西と一緒です。
大澤: 結婚したんやろ?
杉本: 仕事も同じところなんですけど。 
下村: 下村忠利、弁護士です。
大澤弁護士から誘われて修習生の時から大原訴訟の準備をしたという事実経過は色んなとこに書いてある通りですね。
まぁその、僕は大澤さんが兄貴分だと慕って今に至ってる訳ですけど。
ただ僕自身は、民事の裁判というのは、これほんとに本格的にやったのはこの事件ぐらいで、あともちろん労働事件の田中機械の事件は中心になってやりましたけど。
その後、刑事事件中心の弁護士になりまして、今刑事事件中心の大阪パブリック法律事務所というとこの所長をやっております。

大阪パブリック法律事務所というのは、弁護士会が設立している公設事務所なんですね。
その刑事中心で弁護士事務所をやるっていうのは日本で初めてというか、非常に特徴的な事務所なんですが、今13人、僕を含めて13人居る事務所です。 丁度裁判所の北門の前のところにありますので、まぁ非常に便利なところにあるので、また皆さんも、捕まったら是非、来てもらっていいかと思いますが、刑事事件で、ホームページとか見ていただいたらかなり充実した物を作ってますので、私の事務所の特徴というのは分かってもらえると思います。

今、裁判員裁判というのが始まって、一般の裁判員として選ばれた人に対して、どう刑事事件の審理に加わってもらって適切な判断をしてもらうかと、これにまぁ試行錯誤の段階でもあるかもしれませんが、知恵を絞ってる毎日です。
まぁ刑事事件というのは、ほんとに人の日常に関わる、場合によっては生死に関わる事件で確かにもう死刑判決受けた人の弁護なんかもやってるし、それ以前のしょうもないって言ったら失礼ですが、小さな事件でもやはり冤罪事件てのは沢山あるのでそんなことがないように、今まぁ頑張ってるつもりです。
大島: 大島といいます。
去年郵便局を退職しました。
1年間何もしてません。ぼーっとしてました。ほとんど家にいました。

大原闘争の話、先生してはりましたけど、一番覚えてるのがね
最高裁へ行ったのにね、すぐ退場したんですよ。
東京まで行ったんやけど、あの(視覚障害者の)楠さんの持ってた杖が凶器や言うて、最高裁の職員の人が取り上げようとしたんですよ。
ほんで上埜さんがおかしい言うて、(そんな杖をとりあげるのなら、抗議の意味で)退場しよう言うて。
ほんまのこと言うて、せっかく来たのに見たいなぁ思ったけど、退場しようになって退場したんですけど。
あれがちょっと残念なような記憶に残ってるような、裁判闘争じゃ、一番記憶に残ってました。
残念やった、東京まで行ったのに(法廷には)1分くらいしかおらんかったんちゃうかな
下村: え、外で待ってたの?そのまま帰っちゃったの?
大澤: あの時ね、法廷で弁論やってるやろ。
弁論ということは喋っる訳やわな。
その時、外でシュプレッヒコールやっててな。
《視力障害者差別糾弾》とかなんとか声が聞こえてたわ。
おそらく最高裁であんなことやったのはうちしかあれへん。
うちらの大原闘争しかないねん。
せやけどな、それが僕ら(弁護士)にとってな、プラスかというと、ほんまのこと言うとね、黒バッテンがね、どっかについてんねん、きっと僕なんかは。
裁判所でな、きっと俺、問題あり弁護士ということになってんねん。
せやけど、最高裁の構内でそんな裁判所の中で差別糾弾とかいう風なことをそういうデモをやったというね、おそらくないわ。
最高裁ってご存知の通り、建物が要するに砦みたいな形やろ。
あの中でデモやったっちゅうのは唯一俺らだけやわ。
大島: 法廷に入ったんですけど。
下村: 外には行ったんでしょ?
大島: 1回法廷に入ったんですよ。
白杖が凶器やからって取り上げようとしたんですよ。
僕は杖なかったけど、楠さんの持ってる白杖が凶器や言うて預かるって言わはったんですよ、裁判所の人が。
ほんで、上埜さんがそんなんおかしい、出よや出よや言うて出たんですよ。
下村: それ以前に車イスが法廷に入れへんということでエレベーターをどう使んかとかね、それで結構やったよね。
大澤: 最高裁でやったんかどうかしらんけど、地裁ではめちゃめちゃやったやん。
下村: 最高裁でその車いすがエレベーター問題ていう風にやったやん。
大澤: 俺それあんまりしらんけど。
下村: それ覚えてる。
大澤:  (第一審の大阪)地裁で要するに(法廷に入る車いすの)台数制限したやんか。
ほんで自分ら(支援の会)が要するにその(地裁の)構内をデモしてやな、ほんで入り口でもめとったやん。
最初はもう僕ら弁護士やから、まぁあんまり(台数制限のことは)言わんとこか思ってたけどやな、そのうち、気ついてみたら、
(弁護士が先頭に立って)警備員と《なんで台数制限するねん》と、うわーっとやりあってた。
発言者不明: そんなん未だに覚えてるわ。
大澤: なんとはしたない弁護士と(今では)思うけど。
当初は(台数制限が差別というようなことは)そう思ってへんかったけど、段々巻き込まれてもうて、(そのうちに)巻き込まれてって、
こっち(弁護士、下村と大澤)は前に立って、書記官や警備の人に対して《お前何やってんねん、(車いすを)入れんかいな、わーわー》てやってた記憶ある。
下村: 当初はね、手話通訳でもね、なかなか認めないとか、場所どうとかね、色々やってみんな頑張ったおかげで、今やそういうのも裁判所も認められるようになってね。
常識なっていくんで、そういう意味では、みんなの闘いがあるから今の裁判所もどんどん変わって行ってるというので、そらもう大きな力と思いますよ。
大澤: とりあえず自己紹介を…
 
 
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