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会合の呼びかけの趣旨
自己紹介:あれから今まで1
自己紹介:あれから今まで2
大原訴訟の依頼
先輩弁護士の助けも借りて・・
転落の危険を冒してでも視覚障害
 者が街に出だした時代

社会的に意義ある事件なら人は助
 けてくれるという確信

一審の鈴木裁判長は優しかった
控訴審判決はものすごく立派な判
 決であった

点字ブロック普及の理由
点字ブロックの急激な普及
訴訟前の調査の苦労
公務員の受験用教科書に載ってい
 る大原訴訟

大原訴訟の資料
和解で残ったお金は返還した
強制執行で大阪駅へ差押えに行く
当時、国家賠償訴訟は1事件が10
 年かかった

弁護士費用はただ?
介護のために毎週会議をした
大原さんの最期
大原闘争を支援する会の結成の経
 過

上埜さんの想い出
当時、皆で飲んだことはなかった
大原さんはお酒が好きだった
支援する会がないと裁判はでき
 なかった

高木弁護士はどうしてる・・
あまり会うことはない・・
一審判決、拍手の法廷。しかし、
 判決の中身が・・

控訴審判決で点字ブロックの施 
 設が加速した

最高裁の口頭弁論の開催・・支援
 者との議論

最高裁の口頭弁論の開催・・支援
 者との議論2

時間です。次は懇親会でゆっくりと
 お話を・・




【自己紹介:あれから今まで2】
衣笠: 衣笠です、ご無沙汰してます。
退職しました、そんなもんです。
発言者不明: ちょっと少ないやん。
大澤: 今まで何して生きてきたか、ちょっと言いや。
衣笠: 工場で働いてて、今定年になりまして、嘱託やって。
杉本:  定年なったって?60なの?
衣笠:  61です。
杉本: そう、同じ歳やったんや
衣笠: 組合、ちっさいけど、組合をずっとやってましたね。
大澤: なんか大原闘争で覚えてることとかなんか・・・
衣笠:  三十何年前やし・・・
細かいことあんまり覚えてないですけど。
大変やったんは一番最初の原告の原告側尋問。
(大原さん)ごっつい緊張しとって、どうなるかと。
第一審だけ? 第二審もありました?
大澤: 第一審だけちゃうかな。
衣笠: なんか酒が入ってないのを祈りつつ・・・
本多: えっと今は食べる為の仕事は介護事業やってます。まぁ週に3日くらいですね
そこに事務所あるんですけど。
身体障害者のNPO法人なんですけど、阪神淡路大震災の年にできて。
で、こないだの4年前の東日本大震災、自然災害が起こると結構忙しくなります。
大原さんの訴訟はね、楠さんのその遺稿集を作って集会せなあかんってなった時に、大原闘争はやっぱり欠かせないやろうって言うて
資料探したら中河内には全然見当たらなくって、全障連(障害者差別に対して戦うために造られた障害者団体。大原闘争を支援してくれた)の荷物は富山のヒライさんというところに行ってるから富山の倉庫を探せばあるんちゃうかいうて、富山行ったんですよ、5月に。
そしたら出てきました、(大原訴訟を支援する会の作った機関誌の「闘うあし」が)10冊ほど。
タテイワシンゴさんのホームページとかを検索したことありますけども、彼は学生使ってね、相当すごいんですよ、データ量というか、こんな何百ページのやつも全部載せてるんですよ。
全障連でもね、多分3回大会、4回大会くらいくまで大原闘争の報告というかレポートが出てるんですね。
資料的にまとめるってことやったら、その頃は今みたいにパソコンじゃなくてタイプいうやつ、スキャンするなり一度なりはせんとあかんやろけど、探したらいくつかは出てくると思いますわ   
大澤: また連絡するわ。
小西?: 立命館大学の先生。
本多: 今は立命かな?
長いこと長野県の信州大かな、今は関西に来てるはず。
大澤:  あのね、個人的なことを先言うてしまうとね。
2つ大きな出来事あってね。
2年ほど前に胃がんが見つかって、ほんで胃の3分の1切除しました。
ほんでまぁ、北野病院というところに入ったんやけど、どっかリンパ節にも転移してるかもしれんということで胃の3分の1を取った。
それはね腹腔鏡っていうて、画面見ながら手術するやつやってん。
2週間で退院予定やってん。
ほんで手術やって3日目くらいに飯食ってたらやね、猛烈に腹、痛なってね。
検査室行って造影剤飲んでレントゲン見たら、胃からピューと漏れとんねん。縫合不全、縫ったところが外れて、腹膜炎起こして、一月半入院。

ものすごい痩せたね、体重は大体67キロあったんで、一時52~3キロくらいまで十四、五キロも減った。


次は、去年の秋にですね、嫁さんを亡くしまして、これもこたえてね。

嫁さん、段々元気なくなってきて大丈夫かなって思いはあったんで、ほんで病院行けよという風に言うたんやけどね。
行ったとは言うてたけど、どうも行ってないみたいでね、聞いてみたらね。

それから1週間くらいで倒れて、病院行ったんやけどそのままね・・

それでまた痩せてね。体重が大体50キロまでいってん。
拒食症というやつあるけどね、食べる気せえへねんね。そんな感じやったけど、時間経って今大体55くらい、56キロまで戻してね。

それが自分の生活では辛いことが2つ続いたなという感じやね。
ほんで、まぁこの大原訴訟、さっきもちょっと言うたけどね、せっかくこんな闘争やったんや、形残そうということを言うてるんやけども。
それと、弁護士40年やってんのかな、
で、どちらにせよ、もうそろそろ終わりやんか。
終わる前にちょっとなんか、世の中の役に立つようなこともしたいなという思いがある。
その一環で大原をもう一回、振り返ろうやないか、ということもあるけども、
それとは別にね、もうちょっとおもろい事件があったらね、それをやりたい。
若い先生、もう一人入れるからね。
事務所全体でなんかもうちょっとおもろいことでけへんかという想いも実はある、
そう意味で、新しい事件を最後の置き土産としてちょっと関わりたいなという感じやね。

またな、ソーシャルビジネスって聞いたことあるかもしれんけども、そういう風なことに関わってる人間の法律的な相談あるんやったら、それに応じる、そういうのもあり得るなぁとね。

なんかそういう、社会の役に立ちたいなぁという想い、最後にあるなって感じかな。

大原闘争に関して言うと国相手に面白い事件やらせていただいたという思いはある。
しかし、一方で、もうやりたないなという気持ちにもなった。

最高裁が弁論開くということで、それに対する対応をどうするかと、そう議論が東京であってね。
僕ら、下村君も同じ考えやったと思うけども、(最高裁から和解勧告があったら)和解を受け入れるべきではないかというのが弁護士サイドの意見です。

ここに来てる方たちはどういう意見やったか知らんけども、
中で元気良かった学生さんが《それは敗北主義や》みたいなことをわーっと言いよった訳。
気持ちは分かる、言うてる気持ちはね。

せやけど第一審で運転手の過失で勝って、そんなんやったらいっこも嬉しあれへん。

第二審は率直に言うけど、非常にいい判決やった。

最高裁でどんな和解しても、それは和解で判例としては残らん。
判決としては高裁の分が形に残っていくんやから。
和解調書は判例になれへん。

それが言いたかったのに学生が和解はあかんと言いよる。

裁判を支援してきた人間がいうならまだしも、全く大原訴訟に関係してない者が言いよる、そんな空気になってしまっとる。
何、言うてんねんお前ら、裁判のことを知らんで、勝手なことを言いよると腹が立った。
しやから、その後は大きい事件はやめやと。

知り合いの人間的な通いがある、通い合いがある労働者の労働組合のをやろうと。
例えば豊中市職の給食調理した指が曲がる人の事件とかね、労災で鍼灸訴訟とかね。

それと俺の現在の気持ちも言っとくわ。

俺生きてて、世の中のために役に立ったとね、トータルとして、そうなったらええと思ってたんやけど。
今の気持ちから言うと、一月単位、あるいは今日一日単位で、俺が生きてきたことで少しでもようなったとね、
なんかそういう風な気持ちになった。

せやから、大原訴訟も懐かしいんやけど、なんか新しいのあったらそれをまた形作っていこうや、
それを今したいな、っていうのが率直な気持ちやね。
金儲けのための事件、勿論やらんと事務所維持でけへんけどね。

それとは違って、自分が納得できる事件したいなぁ、あるいは納得できる関わり合いをしたいなと。
それが今の率直な気持ちやな。
下村:  その支援との意見の食い違い、僕は全然覚えがなくて、全部、大澤さんが盾になって窓口なってくれたんやと思うけど。
僕は全然その辺はパスしちゃってたね。
すみませんでした。
大澤: 実は僕、スモン訴訟の患者側の弁護団だったけど、あれも共産党系と社会党系がそれぞれあってね、弁護士も喧嘩してたし、支援者も喧嘩してた。
せやから、政治に関わるいうんがもの凄く嫌やったね。
ほんま、本当に手握って歩ける人間と訴訟しようやないかという、せやから後の訴訟みんなそうやね、僕やってきたんね。
三上: 時間短縮のため、名刺を持ってきたので配ります。
いい看板を自分で持ってますからね。

あのね、教育関係ちょっとやってきて、あと交通関係ですね。
で、豊中市の職員は3年して、とりあえず2010年に退職しました。
5年前ですね。
それから、サンデー毎日になるか、毎日毎日2食ちゅうやつね。
それが恐怖だったんだけど、丁度いいところで、府立今宮高校っていう大国町にあるんですけど、その学校に3年生で総合ボランティアなんかコースってのがあって、そこの点字の指導とかに入ることになったんですね。
名刺にも点字技能士っていうのがあるんですけど、これが、府立高校が来てもらっていいと思った一つの理由かなと思います。

沢山点字やる人はいるんだけども、まぁ技能士だということで採用してもいいってことになったと思うんですね。
だから丁度退職と入れ替わりにそこに行けるようになったので、そのうち段々増えまして、 2011年からは小学校全盲の子が豊中の小学校の4年生に入ってきたんですね。
元々僕はそういうことに興味あるんで、絶対こら自分でやっとくべきだと思ったので、その子とお付き合い始めまして、その子が今5年生です。だから全盲で、地域の学校に普通に入ってます。
2012年には私立の学校で、此花学院っていうんですけども。
これがあの大阪偕星学園高等学校と名前変わりましたけども。ここがなんと桃谷、もうなんちゅう縁かと思いますね。
なんでかってったら、弁天町に行く前、大原さんは最初桃谷に住んでたんですよ。
僕、北海道から大阪に来たところに、大原訴訟あるよって、楠さんから紹介されて、桃谷の駅で下りて、商店街をずっと抜けてですね、彼と関わって行ったことのある。
その、その商店街を今、僕は行ってるんですね。ほんとに人生って不思議やなぁとつくづく思います。
はい、なので、今3つの学校行ってるんですね。火曜金曜は小学校、木曜は高校のハシゴです。
なのでずっと僕は教育関係と交通関係で生きていこうかなと思っています。
で、後は同行援護っていうってね、視覚障害者のヘルパーの資格をとる為のそこの講師をやってまして、下手すると8時間喋りますわ。
なんで喋れるかというと、50分で10分休憩なんですね。これで8時間いけるんですね、連続は無理ですよ。
向こうもスクールのほうも講師が沢山いないんでしょう。
だから集中してくるんだと思うど、今はそんな感じです。
武田: 私はあの、大原さんの方は途中で抜けてしまって、最後まで関われなかった。
関わってた当時は裁判で印象残っているのは点字署名です。あれが私としては非常に残っています。
大澤: 点字の宣誓?
武田: 点字で署名したでしょ?
大澤: 宣誓の時の署名かな?
武田: で、あの、大原闘争の場合は、大原さんの生活介護と国鉄の直接交渉と裁判の3本柱だったと思うんですけど。
一番印象に残ってるのは大原さんと格闘というか、生活介護です。子供を連れて行かないといけなかったし。

飲んではる時はもう部屋中汚れてるの拭き掃除しながら、後ろから灰皿飛んでくるかもしれないし、もうそういうの、その時はすごい緊張してやってましたけど。
それがイヤな思い出でじゃなくって、私の中では結構、大事な思い出になってるんですけど
で、大原闘争、色々あって、やめて、その後間もなく盲ろうの人と関るようになって、その後は盲ろう者を支援する活動に集中して、
本当に大原闘争や裁判の方たちとのお付き合いもどんどん途切れてしまった状態で。
で、10年ほど前にその活動を引退して、今は盲ろうの人たちとの個人的なお付き合いを。
で、プライベートでは、私71歳なるんですけど97歳の母親と二人暮らしで老々介護をやってます。
大澤: 大体一通り自己紹介終わったね。それぞれ色々な人生あったんやな。
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