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あのとき、こんなことが・・ 大原訴訟 エピソード集
あのとき、こんなことが…
 (仲間たちの会合)



訴訟資料集
各審級の判決等の訴訟資料を掲載する。
また、大原訴訟は法学の世界でも 注目を集めていた事件であった。
当時の判例集や論文についてのまとめや コメントを付した。
著作権の関係で、文献を掲載することはできないが書誌情報をあげておくので、詳細に興味のある方は 直接文献を当たっていただきたい。
判決文
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※写真はイメージ画像です。

狭い階段を上がってきた大原さんは言った
「国鉄を訴えたいんです」


昭和50年、弁護士になったとき、私は佐々木哲蔵先生の事務所に入った。
今から40年も前の話になる。
佐々木先生は元裁判官で、刑事事件で非常に有名な先生であった。
その事務所の民事事件は私が担当することになった。
同期で、同じ事務所に入った後藤貞人君は刑事事件の担当になった。
大原さんとはじめて会ったのは、この佐々木先生の事務所でのことだ。
当時でも既に老朽化し、床がギシギシというような古い木造家屋の2階に事務所があった。
階段が狭く、しかも途中で曲がっていた。
その階段を車椅子の大原さんが上がってきた。
介護者として上埜さんや衣笠君、小西君がいたような気がするが、もう40年も前のことではっきりしない。
ただ、大原さんを乗せて、重そうな車椅子と一緒に、よくもあの狭い階段を上がってきたものだという記憶が残っている。
大原さんはあまりしゃべらず、「国鉄を訴えたい」ということだけを言い、説明は介護の人から聞いた。
大原さんは、九州から大阪に職探しに来て、国鉄(現在のJR)環状線の福島駅でホームから転落し、列車に轢かれて足を切断した。
なんとか国鉄に対して訴訟ができないかということだった。
この時に、大原さん以外にも、視覚障害者がホームから転落して死亡したり、大きな怪我をしているような事故が多発していることも聞かされた。
当時、同様の事故が新聞等で報道されていたこともあり、ある程度の関心があったが、まさか事件として依頼されようとは考えもしなかった。
事情を聞いた時間は30分程度であっただろうか、私は《わかりました。やりましょう》という回答をした。
この時、訴訟で勝つかどうかも全く考えなかったし、弁護士費用の話も出なかった。
大原さんにせよ、介護の人にせよ、そのような費用が出せるような状況ではなかっただろう。
私が弁護士になった理由の一つに、差別されたり、困ったりしている人が闘いに立ち上がったなら、傍にいてその助けになりたいという思いがあった。
まさにそのような事件が、今、来ているということで、取り組みたい案件でもあった。
乗車券を販売し、列車や駅ホームを利用させているのなら、国鉄は乗客の転落防止などの安全配慮するのが当然だという、素朴な感覚にも後押しされた決断であった。
今、振り返ってみれば、本当に無謀なことだったと思う。
なり立ての弁護士に事件を依頼することも、経験がほとんどないのに依頼を受けて訴訟をする弁護士も。
しかし、無謀でなければ始まらないことがある。
誰かが声を上げること、また、それを助ける者がいてこそ、少しでも世の中が良くなるのだという確信を与えてくれた、大原訴訟はこのようにして始まったのだった。
(弁護士 大澤龍司)