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あのとき、こんなことが・・ 大原訴訟 エピソード集
あのとき、こんなことが…
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訴訟資料集
各審級の判決等の訴訟資料を掲載する。
また、大原訴訟は法学の世界でも 注目を集めていた事件であった。
当時の判例集や論文についてのまとめや コメントを付した。
著作権の関係で、文献を掲載することはできないが書誌情報をあげておくので、詳細に興味のある方は 直接文献を当たっていただきたい。
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※在りし日の塩中先生ご夫妻のツーショットです

善意の人、塩中先生はこう言った
「大原さんが白杖を持っていたらなぁ・・


訴訟を起こす前に、点字ブロックの現物を是非、見たいと思っていた。
国鉄阪和線の我孫子町駅に設置されているという話を聞いた。
当時、関西ではこの駅だけに設置されているということだった。
我孫子町駅の近くに大阪府立盲学校(現在は大阪府立大阪南視覚支援学校)があり、そこに通学する生徒たちのために設置されたということだった。
その盲学校の高等部で英語を教えていた塩中清先生に案内してもらえることになった。
待ち合わせをし、我孫子町駅の改札で初めて塩中先生に会った。
その時の印象を今でもよく覚えている。
短い白髪頭で痩せていたが、とにかく善人という感じの人だった。
今思うと40歳代くらいだったのかもしれないが、当時20歳代の自分から見ればずいぶん年上に感じられた。
学校まで5分くらい歩いただろうか。
プラットホームからの道のりには点字ブロックが敷かれていた。
黄色で、形も大きさも今とほとんど同じようなものであったように記憶している。
歩きながら、僕は大原さんがホームに転落したときの様子を塩中先生に説明した。
その時、塩中先生が《大原さんが白杖を持っていたらなぁ・・》と数回、繰り返した。
転落事故のとき、視覚障害者が持つ白杖を大原さんは持っていなかったが、もし白杖を持っていたら、職員も気を配り転落事故は防げただろうと先生は考えていたのだと思う。
塩中先生のような善人であれば、きっと列車の乗り降りの手伝いからホームの案内までしてくれたであろう。

しかし、当時、国鉄の駅員が白杖を持っている人を見かけても、そこまではしてくれなかったであろう。
国鉄の駅員は、認められた範囲内の業務しかできないのであり、視覚障害者の案内など、おそらくは駅員の業務外であったはずである。
そのようなことをしていれば、《忙しいのに持ち場を離れて何をしているのか》という上司からの苦言を受けることにもなっただろう。
残念ながら、世の中の人は塩中先生みたいな人ばかりではないし、善意の駅員がいたとしても、国鉄という組織が視覚障害者に対して配慮するという姿勢を全く欠いている以上、その善意を《駅員の職務として》遂行することもできないであろう。
個々の人や駅員の善意の問題としてとらえるのではなく、国鉄が組織として視覚障害者の安全対策に取り組むようになってもらう、そのためには裁判という場で国鉄自体のありかたを問いかけるしかないのであり、大原訴訟とはそのようなものとして位置づけられるものであった。
それと事故当時、大原さんは白杖をもっていなかったのであるから、仮定の議論をしてもしょうがないということもある。

それにしても塩中先生はいい人であり、善意の人であった。
この日、塩中先生の家に立ち寄り、奥さんの作ったおいしい手料理を食べさせてもらった(どんな料理であったかは忘れた。当時はどんな料理を食べてもおいしかった年代ではあったが)。
ボランティアで案内してもらい、その上、ご馳走になったということを見ても、大原訴訟のような訴訟をしていると、そんな素敵な人たちに巡り合えるという《いいこと》があるという、一つの例と言っていいであろう。
(弁護士 大澤龍司)